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中小企業経営者への法務実務アドバイス(第15回)
〜 通勤バス代をカット! 会社の言い分は「不公平だから・・・」? 〜
■事例概要
長引く平成不況に広告代理店を営むU社のI社長の顔は曇りがちです。売上がなかなか伸びず、長年の得意先も倒産したり、年数回の広告を打っていたところが、広告回数を減少したり、といった話が多いものですから、その気持ちもわかります。
社員たちの定昇はここ3年間ストップ、幸いに整理解雇までの話は持ち上がっていませんが、賞与や特別手当の廃止、休日出勤割増率の引下げ(5割から法定の3割5分へ)など、かつての社員たちの高処遇は、ほとんどなくなってしまったような状態です。
今回I社長が目をつけたのは、通勤交通費でした。
社員によっては、月に3万円近くの交通費の支給を受けている者もいます。
「交通費をいくら払っても、会社にとっては何の得もないし、社員の手元に残るお金でもない。
もともと支給義務がないのだから、いっそのこと廃止してしまおうか…」
幹部社員の反対もあって、さすがに通勤手当の廃止とはなりませんでしたが、自宅と最寄り駅との距離が同じくらいであっても、次のような不公平は是正するようにとの指示がI社長からありました。
@ バス代を支給している者
A 自転車を利用している者
B バスの路線がない地域に住んでいる者
U社の総務部長は悩んだ挙句、「通勤手当は電車料金のみとし、バス代は支給しない。
ただし、自転車を購入して代用するものについては、2万円を支給する」といった通達を出しました。
■ U社の概要
創業昭和51年 本社 ○○市社員数 76名(パートタイマー11名)
業種 広告代理店
経営者像 58歳、昨今の厳しい経営環境の中、さまざまな経費削減対策を模索中のI社長。"けち"ではないが、社員に対するバブル期の高処遇を次から次に低下させている。
■ 事例発生の背景
事前に社員の意見を聴取することもなく、一方的な通達でI社長の指示を解決しようとしたため、社員たちから猛反発を受けました今回のバス代不支給が労働条件の改悪になるのかどうか、他に方法がなかったのかどうか、専門家の意見を聞くこともありませんでした。
このような一方的な処遇の変更は、社員たちのモチベーション低下に大きく影響を与えたものと考えられ、解決方法如何によっては、労務管理上収拾がつかなくなる可能性がある大事件です
■ 経営者の対応
「バス代は自分で払えということですか」と営業社員「夜遅くなったときに夜道を歩いて帰れというのですか」と女性社員
「この寒空に自転車を使えとは、あまりにもひどいじゃないですか」等々。
「会社も厳しい状況にあるのだから、皆さんも協力してください。賃金を下げるとは言っていないじゃないですか…」
総務部長の言い訳もしどろもどろです。
数名の社員は、直接社長に退職届を持ってきました。
I社長は「これまで本当にバスの定期を買っていたのか、会社にバス通勤と申告しておいて、自転車で通っている者だって知っている。このような不公平を是正するだけなのだ」と説得しますが、かえって火に油を注いだような結果になってしまいました。
総務部長を「やり方がまずいのだ」と、怒鳴りあげても事は解決しません。「なんとか、良い収拾策はないものか…。通勤手当の在り方自体は改善したいしな…」
U社の行き着いた先は、SRネットでした。
■ 税理士からのアドバイス
今回のU社の決定が正当かどうかを、を判定する前に、関連する法律の基本的な説明を行うことからはじめました。通勤手当(通常の給与に加算して支給されるものに限ります。)や通勤用定期乗車券(これらに類する手当や乗車券を含みます。)は次の区分に応じ、それぞれ1ヶ月当たり次の金額までは課税されない事になっています。
通勤距離2km以上の自転車通勤者に1ヶ月当たり4,100円定額支給する事は、非課税の条件該当するので、税務上は非課税扱いになります。
ところが、通勤距離が3kmであっても、徒歩通勤の場合は交通用具の使用が無いので通勤手当の非課税扱いは適用されませんので、この通勤場合に通勤手当を支給すると非課税扱いにはなりません。
いわゆる靴等の消耗は、日常の生活の一部であって給与所得控除の対象とならないという理由からです。
それでは、通勤距離が3kmで、電車通勤をしていたが、健康上の理由から徒歩通勤に切り替えた場合の取扱いについてはどうでしょうか。
それが常例でなく本人の気分次第で電車に乗ったり歩いたりする場合は、交通機関の利用を基準とする通勤手当の非課税支給が認められます。
ただし、徒歩通勤が常例になってしまえば認められなくなります。
したがって、どの程度の場合を常例とするかの判定が重要な判断の基準になります。
なお、この判断基準と社員が通勤方法について虚偽の申告を行い、不当な通勤手当を受け取った従業員に対する対処とは別の問題になりますので注意して下さい。
以上を踏まえて、労使間で公平な通勤手当の支給について論議されると宜しいでしょう。
区 分 | 課税されない金額 | |
@交通機関又は有料道路を利用している人に支給する通勤手当 |
1ヶ月当たりの合理的な運賃等の額 (最高限度 150,000円) |
|
A自転車や自動車などの交通用具を使用している人支給する通勤手当 | 通勤距離が片道55km以上である場合 | 31,600円 |
通勤距離が片道45km以上55km未満である場合 | 28,000円 | |
通勤距離が片道35km以上45km未満である場合 | 24,400円 | |
通勤距離が片道25km以上35km未満である場合 | 18,700円 | |
通勤距離が片道15km以上25km未満である場合 | 12,900円 | |
通勤距離が片道10km以上15km未満である場合 | 7,100円 | |
通勤距離が片道2km以上10km未満である場合 | 4,200円 | |
通勤距離が片道2km未満である場合 | (全額課税) | |
B交通機関を利用している人に支給する通勤用定期乗車券 | 1ヶ月当たりの合理的な運賃等の額 (最高限度 150,000円) |
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C交通機関又は有料道路を利用するほか交通用具も使用している人に支給する通勤手当や通勤用定期乗車券 | 1ヶ月当たりの合理的な運賃等の額とAの金額との合計額 (最高限度 150,000円) |
(注1)「合理的な運賃等の額」とは、通勤のための運賃、時間、距離等の事情に照らし最も経済的かつ合理的と認められる通常の通勤の経路及び方法による運賃又は料金額を言います。
(注2)Aの「運賃相当額」とは、交通用具を使用している人が交通機関を利用したならば負担することとなる1ヶ月当たりの合理的な運賃等の額に相当する金額を言います。
■ 弁護士からのアドバイス
就業規則を変更する際の注意点を判例によりご説明します。「新たな就業規則の作成又は変更によって、既得の権利を奪い、労働者に不利益な労働条件を一方的に課する事は、原則として許されないと解するべきであるが、労働条件の集合的処理、特にその統一的かつ画一的な決定決定を建前とする就業規則の性質からいって、当該規則条項が合理的なものであるかぎり、個々の労働者において、これに同意しないことを理由として、その適用を拒否することは許されないと解すべき」(秋北バス事件・最判昭43.12.25,大曲市農協事件・最判昭63.2.16など)
最後の方の言葉を聞き、一瞬、事業主の顔に安堵の表情がうかびました。
しかし、引き続きの弁護士からの話により、又、もとの困った表情に逆戻りした事は言うまでもありません。
「当該規則条項が合理的なものだある」とは、「当該就業規則の作成又は変更が、その必要性および内容の両面から見て、それによって労働者が被ることになる不利益の程度を考慮しても、なお当該労使関係における当該条項の法的規範性を是認できるだけの合理性を有するものであることをいう」であり、「特に、賃金、退職金などの労働者にとって重要な権利は、労働条件に関し実質的な不利益を及ぼす就業規則の作成または変更については、当該条項が、そのような不利益を労働者に法的に受忍させることを許容できるだけの高度の必要性に基づいた合理的な内容のものである場合において、その効力を生ずるものというべきである」(大曲市農協事件・最判昭63.2.16など)。
さらに、合理性の有無については、「具体的には、就業規則の変更によって労働者が被る不利益の程度、使用者側の変更の必要性の内容・程度、変更後の就業規則の内容自体の相当性、代償措置その他関連する他の労働条件の改善状況、労働組合などとの交渉の経緯、他の労働組合または他の従業員の対応、同種事項に関するわが国社会における一般的状況などを総合考慮して判断すべきである」(第四銀行事件・最判平9.2.28)とされます。
また、このような判例もあります。
保育園事業を譲り受けた使用者が通勤手当、扶養手当及び住宅手当を減額したときのものです。
通勤手当は、実費金額支給から上限を設定して減額、扶養手当は配偶者を1万6,000円から5,000円に、その他の対象扶養者にていても減額、住宅手当も1万5,000円から5,000円に減額したものです。
「人件費削減の必要性は肯定できるが、手当の額は使用者にとっては大きな金額ではなく、人件費削減にはさほど貢献しない反面、労働者にとっては実費を含む上、少なくない金額である。
基本給部分の生涯賃金が大幅に減少していることなどから、諸手当の減額は効力を有しない」(公共社会福祉事業協会事件・大阪地判平12.8.25)
I社長、総務部長のすがるような目を痛いほど感じながらも、判例を交えた説明を続けました。
これで、社会保険労務士がU社の改善指導業務を行うため十分な下地が出来たことでしょう
■社会保険労務士からのアドバイス
社会保険労務士からは賃金とは何か、通勤手当が賃金に該当するかどうかを、労働基準法等の根拠条文により説明し、改善指導を行いました。賃金とは、「賃金、給料、手当、賞与その他の名称の如何を問わず、労働の対償として使用者が労働者に支払うすべてのもの」を言います。(基準法第11条)
どのような名称であっても労働の対償となるものはすべて賃金である事。
労働の対償とは、使用従属関係のもとで提供する労働に対して報酬として支払われるものを指します。
そして、この労働の対償であるか否かの基準は、
@ 任意的・恩恵的給付か否か
A 福利厚生給付か否か
B 企業設備・業務費か否か、
を基準として判断されます。
通勤手当はB企業設備・業務費か否かにあたります。
企業が業務遂行のために負担する企業施設や業務費は、労働の対償ではありませんので賃金では有りません。
例えば、制服(昭23.2.20基発第298号)、作業服、作業用品の購入費用、出張旅費、社用交際費などは通常賃金ではありません。
しかし、通勤手当又はその現物支給に相当する通勤定期券は、労働契約の原則上、通勤費用は労働者が負担すべきものであることから業務費ではなく、その支給基準が会社で定められている限り賃金となります。
また、就業規則は、「常時10人以上の労働者を使用する使用者は、次に掲げる事項について就業規則を作成し、行政官庁に届け出なければならない。
次に掲げる事項を変更した場合においても、同様とする。二 賃金(臨時の賃金等を除く。以下この号において同じ。)の決定、計算及び支払いの方法、賃金の締切り及び支払いの時期並びに昇給に関する事項」(基準法89条)です。
ひと通りの説明を終えると、通勤手当は、労働基準法における「賃金」であることが、I社長はじめとしたU社の幹部に理解されました。
今回のU社の通勤手当支給基準の変更は、労働条件の不利益変更に該当し、かかる就業規則の変更も行なわれていないことから、U社に全面的な非があることが明かです。
さて、問題のU社の就業規則を見せていただく様に総務部長にお願いすると、案の定、金庫より出て来ました。
就業規則は会社の憲法ですから大切にする気持ちも解るのですが大切にし過ぎです。
監督署の届出印の押された10年以上の前の就業規則です。
退職金制度導入の際に必要書類と言われ、生命保険会社の担当者が持ってきたものに言われるままに判を押しただけで後は担当者がやったとの事です。
これは、社会保険労務士法違反ですが前の事を言ってもしょうがないので開いてみると、そこには
通勤手当
「通勤手当は月額〇〇〇円までの範囲内において |
たったこれだけです。
月額〇〇〇円は当時の非課税限度額です。
その後は、非課税限度額を読み替えていたとの事です。
U社は、就業規則の大切さその内容の変更に関する社員からの意見聴取についても、無関心でした。
賞与や特別手当の廃止、休日出勤割増率の引き下げ時に、今回のような問題が発生しなかった事自体が奇蹟みたいなものです。
今回の事件を含めて、これまで貴重な従業員が辞めていったのは、このような労務管理が原因かもしれません。
人材の流失は、会社の損失であることをI社長は自覚しなければなりません。
今後は就業規則を早急に整備する必要がありますので、当然に従業員の代表にも参加してもらい、実情に合ったものにして、合意を得ることが重要です。
会社からの一方通行的な労働条件等の変更ではなく、会社と社員が意見交換することによって、より良い労使の一体感が生まれるのではないでしょうか。
就業規則は周知徹底されなければ、ただの紙切れであり、従業員に周知徹底する為には、何時でも、誰でも見られる様に工夫すること、たとえばパソコンの共有フォルダにUPしておくことも一つの方法です。間違っても金庫の番人にならないようしなければなりません。
特に今回問題となった交通交通費に関しては、次のポイントで労使間の話し合いをもつようにしました。
@通勤手当といっても全てが非課税ではないこと
A公平な支給方法も再検討すること
B各社員の通勤経路を再確認すること
Bについては、現在の交通費が正しく払われているかどうかを調べるためでなく、通勤途中の災害(通災)に付いての確認資料であることを説明しました。
(少々遠周りであっても、合理的な通勤経路であれば通災が適用されます。日常生活上必要な行為の後で、通勤経路に復帰した後は、通災に該当する等の資料として利用するためのもの。)
I社長が言う"不公平感の解消"ではないのですが、会社が社員を管理するための報告ではなく、どちらかというと社員の保障のための報告であることを理解させる手法が効果的です。
U社には、女性が多いため、育児休業・看護休業の実施、育児休暇・看護休暇制度の導入により福利厚生の充実を全面に押し出して、社員のモチベーションの回復を図る方法を提案しました。
なお、この育児休暇・看護休暇制度の導入には現在、育児・介護雇用安定助成金(看護休暇制度導入奨励金、育児両立支援奨励金)も支給されますので事業主にとっては願ったり叶ったりの提案となりました。
ここでやっとI社長の顔にも、総務部長の顔にも安堵の表情が浮かんできました。
良くある事ですが、問題解決の糸口が見つかれば、全てが解決してしまった様に錯覚することがあります。
ここで安心し無いように、失った社員との信頼を取り戻すには今までの倍の時間と、努力が必要であることを胆に命じてくださいとお願いしました。
今回の事件でI社長は専門家の重要性を認識して頂き、多方面から客観的に会社を診断する事の重要性が理解出来たようです。
I社長の別れ際の笑顔が印象的でした。
本文執筆者 社会保険労務士 柴田 義重 弁 護 士 菅野 泰 税 理 士 大森 雅之
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